西伊豆田子 カネサ鰹節商店の芹沢氏 鰹節の歴史と伝統製法を 語る!
今回は、「若者に伝統と文化を伝えることが大事ですから」と語る西伊豆町田子の芹沢さんのところへおじゃましました。芹沢さんは普段から、田子の文化の普及にも努め、伝統的な製造方法や元になる燻乾法(くんかんほう)、かつお節のルーツなどの研究もされています。平成19年には、静岡県立松崎高校の文化祭テーマ「守れ伝統、誇れ文化」の中で、かつお節業で栄えた伊豆田子の歴史を教えました。
4月の穏やかな日、桜の散りかかった頃に西伊豆町田子へ向かいました。
西伊豆の国道136号線から田子港に下る道を入ってすぐに「カネサ商店」の看板が見えます。玄関は直売所になっていて、取材中も何組ものお客さんが、買物に来ていました。
よくテレビ局や雑誌の取材もあるようで、有名人の色紙がいっぱいありました。
芹沢さんのところでは、昔ながらの手火山によるカツオ節を製造されています。
取材に伺った時、わざわざ 手火山式焙乾法 を見せていただいたので、
その部分を中心に、製造工程をカンタンに箇条書きでご紹介します。
1. 原料の鰹 → 漁場並びに魚質を厳選し、鮮度の良い鰹を原料としています。
2. 包丁の種類 → 頭切り包丁、身おろし包丁背びれ取り包丁、四ツ切包丁を使います。
3. 解体作業 → 鰹の頭・腹部内蔵を除去します。腹部はハラモのくんせいに、内臓は
塩辛になります。
4. 身卸し(三枚にする)、身割り(一尾で四本)をします。
5. 煮篭に組む → 身割りをした鰹を煮沸用の篭に入れます。
6. 煮沸 → 釜に入れ2時間位煮ます。
7. 水抜き → 煮熟後冷却して、鱗・大骨・小骨を抜き、清水で水洗いし、セイロ(乾燥用容器)に並べます。
8. 水切り焙乾 → 煮肉の腐敗を防ぐ為、セイロに並べた製品を1時間程度、じわじわといぶして乾かします。
9. 成形作業をします。
10. 薪(楢・くぬぎ・桜・地元の雑木)を使い、手火山式焙乾をします。
乾燥には、特に注意し、じわじわ燻し乾かします。焙乾は品物の大きさによって
10回~15回行います。作業日数は1ケ月を要し、最も重要な味を決める作業です。
手火山式焙乾法の大変なところは、どの様なところでしょうか?
「やっぱり、火かげんですかね、気を使うのは。じわじわとね。燃えたタールの成分がつきますから、モノを見ながらやるわけですよ。」
薪はどの様なモノを使うのでしょうか?
「地元の雑木ですね。くぬぎ・楢・桜などですね。近くの松崎は桜葉で全国的に有名ですが、このあたりは海が近いから木も大きく育たないので、割と合う雑木が獲れますね。ある程度タール分が乗ってきた後は、自分の手の感覚でやりますから、人によって温度差があって違いますし、ここで味がきまりますから…。同じ事をやっていても何故か人によって味が変わるんです。面白いですね。」
火の具合はどうするのですか?
「火というのは、真ん中だけじゃないんです。風向きによって右左と移るんです。そのためにこの蓋があるんです。向きを変えて火を送るんです。強くしたり弱くしたりもね。」
難しそうですね?
「一番気を使うところですね。それと夏場は、ここは40度以上になりますから。体の中に熱がたまるんです。終わって夜、寝るときになってもまだ火照って眠れませんからね。ここで味が決まるからしょうがないですけどね。一本一本こうやって温度を感じながら調節して燻すんです。」
炉が10個ありますが、全部一度にやるんですか?
「そうです。4段ずつ順番に同時にやります。結局、このぐらい堅くなったところが一番怖いね。昔は土間で土の炉だったのが、コンクリになって熱がたまるので微妙な火加減が難しくなっています。最終的には、全て均等の温度になります。」
どのくらいの期間で出来るんですか?
「荒節になるには、特に注意して、じわじわ燻し乾かしますから、焙乾は品物の大きさにより10~15回行なって、作業日数は1ケ月かけます。最も重要な味を決める作業ですから。」
10.荒節 → 出来上がった品を荒節といいます。
11.荒節削り → 表面を削る作業をします。
12.天日干しを行い、発酵菌吹き付け作業をして、樽詰めします。
14.発酵作業 → 倉庫に保管後20~25日目で、一番カビが鰹節に付着します。
15.天日干し・発酵菌吹き付け・樽詰め・発酵の作業を、七番カビまで繰り返します。(一番カビは、20日~25日。二番カビは7日~10日。三番カビから七番カビは、各15日~20日)
本枯節の完成まで4ヶ月以上を要します。
先々代からの賞状
鰹の塩辛、かつお・はらもの燻製など。店頭販売している商品は、鰹節づくり一筋、創業百年を迎えた「カネサ鰹節商店」のオリジナル。
芹沢さんにも、新商品のオカカ7型の電動装置を使って、実際に削っていただきました。

静岡県立松崎高校の文化祭テーマ 「守れ伝統、誇れ文化」 の中で、生徒と一緒に
かつお節業で栄えた伊豆田子の歴史を紹介しました。
インタビューに来た学生とパチリ!!
山本佐一郎さんは、田子で最後までカツオ船に乗っていた船長さん。田子の町を再現したジオラマを作成し、多くの人に田子の文化を伝えています。
土屋さんは、学生に模型作りを指導。精密な鰹節船の模型を完成させました。
芹沢さんに <かつお節のルーツ> をお話していただきました。
日本最古のカツオに関する文献は、奈良県の天理大学付属図書館所蔵の古事記です。その中に「712年、第二十一代、雄略天皇が河内に行幸された折、屋根の上にかつおを干してある家に気付き、誰の家かと尋ねた」という一文があり「堅魚(かつお)」の文字が記載された最古の資料だと言われています。「堅魚」の語源は、伝承料理研究家によるとカツオが煮ると堅くなることから、こう呼ばれるようになったのではないかとのことです。
現在でも、神社などの屋根には「堅魚木(かつおぎ)」があり、本数によってその神社の格付けがされているそうですが、その意味までは分かりません。また、結婚式などの引き出物にされることでもわかるように目出度い魚であったようです。
平城宮跡などからカツオの送り状である木簡が発見されたりしています。その中に「荒堅魚(あらかつお)」と書かれており、たぶんその当時の税金の代わりに収めたモノで、当時から少し煮て、堅くなったかつおを小刀で削って食べたり、煮詰めた煎汁(いろり)をだしに使っていたのではないかと考えられるそうです。
江戸中期に入ると、土佐沖で獲れたカツオを土佐節として加工し、大阪や江戸などへの市場に出荷したと言われています。4月から5月頃に土佐沖に来るカツオは、脂ののりが鰹節に最適なのだそうです。かつお節の本格的な製法を教えたのは、「紀州の甚太郎」だと言われています。この甚太郎という人は、元々紀州・印南の漁師で、土佐沖までカツオ漁に出ていたのが、嵐のときに宇佐浦で助けられ、そのまま住み着いて、かつお節の燻乾法を教え、それが土佐中に広まったようです。「土佐節発祥の地」の石碑があります。
もう一人が、その紀州の印南から関東地方に旅に出た人物が「土佐の与市」という人で、彼は、他国に秘伝のかつお節製法を教えたという罪で故郷を追われたとも、一説には心中事件を起こして、国にいられなくなったとも、言われていますが、定かではありません。いずれにしても、ふるさとに帰れなくなった「土佐の与市」を受け入れてくれる土地はなかなか見つからなかったが、千葉県千倉町で初めて受け入れられ、亡くなるまでその地にとどまり、かつお節の製法を教えて骨を埋めたそうです。千倉町で広まったかつお節の生産量は、明治時代になると年間150トン以上あったそうですが、現在では、たったの3トンにまでに減ったったそうです。
その「土佐の与市」が伊豆の安良里へきたのは何故か?実は、その当時、安良里から江戸の築地にかつお節を出荷していたのですが、たまたま土佐の与市が、その問屋で見たかつお節は、「本当のかつお節ではない」と言ったため、浅草茅町でかつお節問屋をしていた山田屋辰五郎という人が、土佐の与市に「三年間、かつお節シーズン中、1日金一分(現代では2万円)と毎日酒を一升」という条件で伊豆に招へいしたそうです。伊豆半島の田子地区は、かつて伊豆水軍とよばれた『海人』が大海原を舞台に活躍をしたところです。その伝統を受け継ぎ遠洋漁業の拠点として栄えました。漁船が持ち帰った海産物の加工技術が田子の浜に百年の伝統として根づきました。その土佐の余市が残した製法をさらに極めたのが田子に残る手火山式燻乾法(てびやましきばいかんほう)の田子節だそうです。
全国鰹節探訪一覧のページへ



